
今年のはじめ頃、暑寒沢の方から同地の稲荷神社について出自などを調べてほしいというお話があり、初めてその中を覗く機会をいただきました。ご本尊と思われる稲荷大神は二つ、また壁面には軸がかけられています。二つの稲荷大神のうち、新しい方は裏に昭和15年、京都の伏見稲荷神社から分霊したものであることが書かれており、もう一つのほうはさらに古く、破損も激しいため「白狐山稲荷大神」という表記以外は調べることはできませんでした。掛け軸も稲荷大神の図柄で、よく見ると「白狐山稲荷大神、山形県東田川郡三ヶ澤」が読み取れ、小さく「明治二十四年乙坂寅吉」とかすれつつも朱色の版が押されています。地図で見ると現在の山形県には東田川郡の立川町に三ヶ沢という地名がありますが、稲荷神社は見つけることができません。立川町の教育委員会に聞いてみたところ、確かに三ヶ沢には白狐山稲荷大神が存在することと、もともとは付近にある光星寺から分かれて祀られたものだという話を伺いました。昭和38年発行の「立川町の歴史と文化」には以下のように記されています。(要約)三ヶ沢にある光星寺は曹洞宗で八六一年の開基。もともと東北を行脚していた住宝僧正がこの付近に留まっていた際、ある夜夢で天女が白狐に乗って現れ、貴僧がこの地で修行するなら私の一族である陀喜尼尊天(稲荷大神)の白狐を使わそうと告げた。数日たったある日白毛の老狐が現れ僧正を宇賀の森へと導いた。故に僧正はこの地に観音菩薩を本尊として弁才天・陀喜尼尊天を祀るお堂を建立したという。この後、明治維新の神仏分離の際に、当時光星寺の檀頭であった乙坂寅吉が、明治14年に京都伏見の稲荷神社から新たに分霊を受け白狐山稲荷教会所本部を発足、その後光星寺の近くに新規に神殿を造営し、白狐山稲荷教会所として今日に至った。
果樹園開拓の祖である藤原筆吉や大沼竹蔵がそうであったように、暑寒沢には庄内地方(山形県の日本海側)出身の営農者が多く、そうした人達が郷里の信仰を増毛に持ち込んだであろうことは想像に難くありません。ふるさとをしのび、地域が団結する精神的支柱として、稲荷神社はその役目を果たしていたのではないでしょうか。